【アーカイブ】屋久杉を切れ! 泊如竹と近世日本
講師:小原比呂志さん
屋久島野外活動総合センター=YNAC
北海道出身。1987年屋久島に移住。日本のエコツアーガイドの草分けYNACの創立メンバー。NHKドキュメンタリー「伝説の超巨大杉を追う」捜索隊長。著作に「屋久島のコケガイド」(共著)「屋久島オープンフィールドミュージアムガイドブック」(共著)
泊如竹という名前をきいたことがありますか? 江戸時代の儒学者で、その高い見識は各地の大名から重用され、侍講(君主に対して学問を講じること)として活躍もしていた僧ですが、実は屋久島・安房の出身で、屋久島の人々の生活向上のため、非常に力を尽くした人物でもあります。その背後に、屋久杉があります。江戸の屋久島と屋久杉と傑出した人物、この関係を小原比呂志さんが解説していきます。
- 動画版
- テキスト版(準備中)
※動画のどこでどんな話をしているか簡単な概要をまとめています。詳細な内容はぜひ全編をご覧ください。
本日のプログラム
- 応仁の乱と種子島
- 法華宗と屋久島
- 泊市兵衛・日章・如竹散人
講義スタート〜序章 07:01
- 屋久島が生んだ歴史上最も重要な人物・泊如竹
- 改めて屋久島とはどんな島か
- 鎌倉幕府の御家人・千竈氏(名古屋)と屋久島
- 勘合貿易船(遣明船)建設のための大木がなくなり、そして……
- かつて九州にはスギがなかった、たった1箇所あったのは……
- 山の資源を知っているのは修験者
- いち早く知っていたのは種子島氏そこに法華宗がからみ……
遣明船のルート 17:26
- 大陸との貿易は大きな利権
- 応仁の乱につながるー勘合貿易の利権争い
- 新たなルートがさらなる利権も生む
15世紀法華宗の布教 22:12
- 現世利益をとなえるので商人から支持された
- 南九州で景気が良くなると同時に種子島/屋久島に法華宗が入る
- 楠川城址その後ろに屋久杉林が……
年表で日本・法華宗・種子島氏の動きを確認 26:40
- 法華宗・山の神と戦う
- 種子島氏・島津氏の関係
- 江戸時代に建てられた島津義久の供養塔を建てたのは誰か?
- 屋久島の山に残るスギを見る
原 益救神社 30:25
- 泊如竹と屋久島のスギ
- 益救神社の石塔にある 本住坊 日章 拝 これは誰か?
- 安房にある本仏寺 如竹が生まれた場所
- 如竹廟にあるレリーフには大・大名の名がズラリ
- 泊如竹は2つの分野の専門家
泊如竹の足跡 36:16
- 屋久島から尼崎本興寺、消失した本能寺再建に関わる
- 鹿児島 国分 正興寺
- 津で藤堂景虎と出会う
- 屋久島本仏寺に戻りさらに琉球へ
- さらに島津氏のもとへ
泊如竹の人生1 屋久島に生まれる 41:08
- 安房の船大工の家に生まれる
泊如竹の人生2 本能寺に行く 43:05
- 才能を認められ尼崎本興寺に入る。僧名 日章
- 本能寺の再建に関わる
- しかし再建後すぐに天明の大火で焼ける
- 屋久杉があったかもしれないのに!
- 余談 屋久杉が使われた?寺 京都方広寺大仏殿
泊如竹の人生3 鹿児島へ 50:23
- 36歳で鹿児島へ。
- 南浦文之とともに島津藩の外交スタッフに
- 屋久島に戻り安房本仏寺の住職となる
- 屋久島の伐採権を島津氏が奪う
- 如竹は島津家のために屋久島の木材開発を始める?
屋久島のどの村がたくさん木を伐ったか 59:41
- 面積の大きな村が多く伐採していた
- 村の区割りをやったのは如竹?
泊如竹の人生4 藤堂家侍講
- 閑話休題・チャットによる質問
- 屋久島を作った仏壇はあるか?
- 如竹がスギを切れといったのは屋久島にとってよかったのか?
- (本題に戻ります)
- 51歳で藤堂高虎の侍講(君主に仕え学問の講義をすること)に
- 江戸での活躍は藤堂家の侍講であればこそ
- 島津家はなぜ如竹を手放した? 送り込んだ説あり
- 朱子学を学んでいたため全国どこでも大活躍
如竹の出版 1:16:24
- 「家法倭点」
- 「和訓四書集註」あとがき
- 「四書集註文之点」あとがき
- 「周易伝義」
- 「南蒲文集」
如竹 首里へ 琉球出仕 1:18:52
- 藤堂家から屋久島に戻り、その後琉球へ
- 尚豊王の侍講を行う
- 薩摩藩と琉球の橋渡しのために送り込まれる?
- 朝貢という名の割の良い貿易の回数を増やすことに成功!
- そしてまた如竹は屋久島に戻る
如竹の詩 1:26:24
※ぜひ動画をご覧ください。心境が伝わる内容です。
泊如竹は屋久島だけではなく、全国各地の大名や王様に影響を与えた偉人でした。なかなか知ることのできないその人生を知ると驚きばかりです。それだけに、最後に屋久島に戻ってきた時に詠んだ漢詩がしみじみと胸にしみますね。
順次公開予定です。しばらくお待ちください。